ページの先頭です

音吉物語

[2008年12月18日]

ID:144

ソーシャルサイトへのリンクは別ウィンドウで開きます

音吉の記念碑

ここでは、姉妹都市、バンクーバーU.S.A.に初めて渡ったと言われる日本人のお話をしましょう。

岩吉、久吉、音吉(乙吉とも書きます)の3人の日本人がコロンビア河口から200キロメートル北方にある、太平洋岸のフラッタリー岬に漂着したことを記念した石碑がバンクーバー市内の公園にあります。1832年(天保3年)、現在の鳥羽市の辺りを出港後、嵐に遭い船が転覆。14人の乗組員のうち生き残った岩吉(当時28歳)、久吉(当時17歳)、音吉(当時16歳)だけがアメリカ太平洋岸のフラッタリー岬に漂着。インディアンに救われます。3人はハドソン湾会社のラーマ号によって、コロンビア川を上り、フォート・バンクーバーへ連れてこられます。やがて、そこからハワイを経由し、ロンドンに到着。その後、3人はマカオに連れて行かれました。そこで彼らの世話をしたのがドイツ生まれの宣教師・ギュツラフで、3人を相手に聖書の日本語訳を1年がかりで完成しました。

5年後の1837年(天保8年)に、日本政府との国交を望むアメリカ人商人で熱心なクリスチャンのキングやギュツラフ宣教師たちとモリソン号で浦賀沖に到着。しかし、日本幕府から砲撃され帰国をあきらめました。絶望に打ちのめされた彼らは、気を取り直し、自分たちのような漂流民を助けようと誓いました。その後、彼らは長年にわたって、多くの日本人漂流民を救助し、帰国できるようにしました。当時上海に住んでいた音吉は、36歳のとき、イギリス軍艦スターリング号の通訳として2度日本を訪れました。その後、シンガポールに移り、日本幕府のヨーロッパ派遣使節団と面会。この使節団には、福沢諭吉も含まれていました。

音吉は、49歳のときシンガポールで病死。1879年(明治12年)音吉の長男・ジョン・W・オトソンが父の遺言通り、横浜を訪れ帰化を願いましたが、父のふるさと・小野浦(現在の知多郡美浜町)に帰ることは叶いませんでした。
美浜町の小野浦にも、「岩吉・久吉・乙吉頌徳(しょうとく)記念碑」があります。
音吉たちの話は、三浦綾子著・「海嶺」に登場し、文中には、ハドソン湾会社やフォート・バンクーバーの様子についても書かれています。

お問い合わせ

城陽市役所企画管理部秘書広報課秘書係

電話: 0774-56-4050

ファックス: 0774-56-3999

電話番号のかけ間違いにご注意ください!

お問い合わせフォーム